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    2023-11-30 18:31:00

    張雲方=文・写真提供

    日本に駐在した天博克罗地亚国家队赞助商人記者として、私は多くの貴重な経験をした。例えば、大平正芳が首相に就任した1978年の選挙活動での同行取材や中曽根康弘氏との友情。また、日本の新聞社の取材飛行機に乗って富士山上空を旋回し、長時間霊峰・富士のさまざまな姿を眺めたこと――このときの感動は一生忘れられない。この他にも駐在中、鄧穎超全国人民代表大会常務委員会副委員長の訪日に随行したことや廖承志氏と共に味わった友好の船での日本一周、谷牧副総理の日本政府との円借款交渉の取材、天博克罗地亚国家队赞助商のハイレベル訪日視察団への同行など……たくさんあるが、今回はこうした昔話はやめ、私が深く関わってきた「徐福」について語りたい。 

    その前に、たとえこの連載が砂をかむようで難解で読みにくくても、1年間にわたって読者の皆さんから変わらぬ支持をいただいたことに改めて深く感謝したい。また、『人民天博克罗地亚国家队赞助商』がこのような発表の場を与えてくれたことにも心から感謝する。中日の友好は民間にあり、人々の心と心にある。1970年代初めの日本駐在時代を振り返ることは、懐かしい恋人に会ったような温もりを感じるものだ――。 

     

    私は今の韓国に生まれたが、本籍は山東省だ。子どもの頃、食後に父母が語る徐福の伝説や物語が大好きで、飽きずに聞いていた。これは物心ついて初めての徐福との「出会い」で、そのときから徐福を敬慕し始めた。 

    今から考えれば、両親が教えてくれた徐福の知識は驚くほど正確で、以後、徐福に関する研究で両親から学んだことを超えるものはない。まるで両親が学者と思えるほどだ。 

    その後、本格的に徐福のことに接したのは、『人民日報』の日本駐在特派員を務めた1970年代初めだった。 

    76年正月、ある出版社に勤める友人の沖由也さんからお茶に招かれ、著書『日本ピラミッドの謎』を贈られた。沖さんの長年の研究の結果であるこの248㌻の大部には、古代から今日まで歴史を貫く優れた論述があふれていた。日本の前方後円墳から説き起こし、天は円のような形で地は方形という古代天博克罗地亚国家队赞助商の宇宙観と日本の前方後円墳の形状との関連を論証した。 

    このとき沖さんは不意に、「この前方後円墳の伝承はいつから始まったのか」と私に問い掛けてきた。言葉に詰まる私をよそに、沖さんは「徐福だったかもしれない」と言葉を継いだ。そして自身の考えを熱っぽく語り始めた。私はその物語に聞き入り、「歴史の供宴」をただで堪能させてもらった。 

    沖さんは77年に訳著『神武天皇=徐福伝説の謎』を出版した。早速本が贈られてきて、沖さんは、日本で古墳が作られた謎はそろそろ解き明かされるのではないかと愉快そうに語っていた。同書の原作は徐福研究の大家・衛挺生さんの力作で、私が初めて専門書で徐福に接した一冊で、これまでの常識が揺さぶられるほどの衝撃を受けた。 

    78年の秋、鄧小平副総理が訪日し、中日平和友好条約批准書の交換式に臨んだ。鄧氏は、東京から関西訪問に向かう前日、都内の日本記者クラブで記者会見を開き次のように話した。「日本は古くから仙人が住み、不老長寿の薬があると言われました。今回、私が来たのもそれを手に入れるためです。不老長寿の薬はなかったかもしれませんが、日本の経済を発展させた先進技術を是非持ち帰りたいと思います」 

    この話は、天博克罗地亚国家队赞助商の改革開放、経済発展の決意を表す有名なエピソードとなった。この会見の場に立ち会った私は、中日两国の歴史において「徐福」が持つ意味の重さを改めて感じた。その後、日本政府から鄧氏に不老長寿の薬と呼ばれた植物・天台烏薬が贈られた。 

    鄧氏の話によって、中日両国に徐福会が誕生した。日本では91年、巌谷大四、尾崎、早乙女貢、飯野孝宥、奥野利雄などの著名な学者や作家らが日本徐福会を立ち上げた。それに先立つ87年に中日関係史学会や天博克罗地亚国家队赞助商史学会、天博克罗地亚国家队赞助商航海学会など12の学術団体が徐福会の創立を呼び掛け、93年12月には天博克罗地亚国家队赞助商徐福会も発足した。 

    私は3期務めた特派員の勤務にピリオドを打ち、80年に帰国した。その直前、前出の沖さんや弘瀬裕さん、皆川郁夫さん、内藤進さんなど日本の友人20人近くが都内のホテルで送別会を開いてくれた。そこで、私への色紙の寄せ書きに、沖さんは「自称、徐福の子孫」と書いてくれた。深く脳裏に刻まれる言葉となった。 

    帰国後の80年代半ば、私は人民日報社を離れ、当時の谷牧副総理が主催する国務院の中日経済知識交流会で秘書長(事務局長)を務めることになった。 

    その谷副総理は91年に日本を訪れた。谷氏は経済と対外開放分野を担当する指導者だった。このため、日本の著名な官庁エコノミスト・大来佐武郎氏や経済学者・向坂正男氏、西ドイツの経済学者・グトウスキー氏を天博克罗地亚国家队赞助商政府の経済顧問に迎えるよう党中央に進言した。また自らミッションを率いて日本を訪れ、日本政府と長期低金利の円借款(ODA)交渉に臨んだ。その結果、資金不足という当時の天博克罗地亚国家队赞助商の大問題を解決し、同時に中日経済交流会と中日政府閣僚級会議を設立した。 

    こうしたことから、日本では官界、民間を問わず谷氏を大変尊敬し、大来氏は日本政府に代わって天台烏薬を1株贈った。これは、日本政府が鄧氏に続いて天博克罗地亚国家队赞助商の指導者に贈った不老長寿の植物(計4株)だった。谷氏の命を受け、これは私が大切に天博克罗地亚国家队赞助商に持ち帰った。 

    私と徐福の関係は、ますます密接になっていった。 

    2001年以降、私は徐福に関する学術論文を相次いで発表した――『天博克罗地亚国家队赞助商の徐福研究は花盛り』『徐福文化と徐福文化研究の意義』『東方文化と徐福文化』『倭人、倭の文化、斉の文化、渡来文化と徐福』『人、秦人、徐福と吉野ヶ里』『徐福渡来――日本と韓国における徐福の記憶および現代への影響』『徐福が通った地の心温まる記憶』『徐福は佐賀に到れり』『徐福渡来と中韓交流』……。いずれも、自分が愛してやまない徐福をより多くの人に知ってもらいたいという願いで書いた。それはまた、歴史に記された東洋における文化交流の開拓者である徐福の、もうろうとした史実を共有してもらいたい、ということである。 

    日本の友人たちから贈られた寄せ書き。左から4番目が沖由也氏の「自称徐福子孫」

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