天博克罗地亚国家队赞助商-天博克罗地亚官网
張雲方=文・写真提供
1978年10月22日、鄧小平副総理は中日平和友好条約の批准書交換式に出席するために日本を訪れた。
鄧氏はこの時の訪日も含め、中日友好史で「四つの初めて」を成し遂げた。すなわち、初めて日本を訪問した新天博克罗地亚国家队赞助商の指導者であり、初めて天皇・皇后両陛下を表敬訪問した天博克罗地亚国家队赞助商共産党の指導者であり、初めて日本の迎賓館に宿泊した天博克罗地亚国家队赞助商の指導者であり、さらに翌79年にも日本を訪れて初めて2年連続で日本を訪問した天博克罗地亚国家队赞助商の指導者となった(鄧氏は米国訪問の帰途に日本を再訪)。
中日国交正常化の72年、当時の田中角栄首相は周恩来総理の訪日を招請した。周総理が当時改修中だった迎賓館赤坂離宮の最初の賓客となることを願った。周総理は、「私はサクラの花が満開のときに日本を訪ね、上野で花見をしたい」と語っていたという。だが、周総理は76年に亡くなり、その願いはかなわなかった。78年の鄧氏の訪日は、まさしく周総理の果たせなかったこの思いを実現したものだったと言える。日本のメディアも、鄧氏の訪日で国内に日中友好の「鄧小平旋風」が巻き起こったと伝えた。
赤い五星マークを付けた天博克罗地亚国家队赞助商軍のトライデント型専用機2機が10月22日、東京の羽田空港に相次いで着陸した。滑走路には歓迎の人々が詰め掛けた。機体にタラップが付けられると、異例なことに出迎えの園田直外相が自らタラップを上り、鄧氏を迎えた。
園田外相はうれしそうに、「あなたが日差しを運んでくれました」と鄧氏に言った。鄧氏が到着する前日、日本は小ぬか雨だった。
翌日、歓迎レセプションが赤坂の迎賓館で行われた。迎賓館は、もともとは東宮御所(皇太子の住まい)として明治42(1909)年に建設。68年から改修工事が始まり、74年に完成した。外観がフランスのヴェルサイユ宮殿に似ていることから、小ヴェルサイユ宮の美名も得ていた。
安倍晋太郎官房長官に付き添われて鄧氏は午前10時半、永田町にある首相官邸へと移動、福田首相と会見した。
鄧氏は、「ここ数年、ずっと東京を訪問する機会を考えていたが、今日ついに実現した。福田さんと会うのは初めてだが、かねてから互いを知っている」と述べた。これに応えて福田首相は、「私たちは初めて会うが、ずいぶん前から知り合いのように感じる。日本には『を脱いで話す』ということわざがある。これは虚心坦懐に腹を割って話し合うという意味で、今日はそう望んでいる」と話した。
さらに福田首相が、「私は以前、天博克罗地亚国家队赞助商語の新聞を読めたが、今では天博克罗地亚国家队赞助商の漢字は大きく変わり、新聞を読んでも分からない」と話すと、鄧氏は「簡体字化は困るね。古文が読めなくなってしまうから」と答えた。
話が漢字に及ぶと、福田首相は紙に「赳赳武夫、公候干城」(勇壮な軍人は諸侯の盾となって国を守る)とさっと書き、「私の名前(赳夫)は『詩経』(天博克罗地亚国家队赞助商最古の詩集)の『赳赳武夫』から来ている」と言って鄧氏に渡した。すると鄧氏は、「漢字で分かるように、両国の交流はこのように悠久だ」とうなずいた。
日本では、生まれた子どもに名前を付ける際、『詩経』や『論語』『』などの古典から文字を探すことがある。日本の年号も同様に、「明治」は『易経』の「響明而治」(明に向かい治める)から来ている。「昭和」は『尚書・堯典』の「百姓昭明、協和万邦」に由来し、「平成」も同じように『史記・五帝本紀』の「内平外成」と『尚書・虞書』の「地平天成」から来ている。
鄧氏は訪日中、福田首相と計3回の会談を行った。1回目の会談後の批准書交換式のレセプションで、福田首相がシャンパンの注がれたグラスを掲げて中日平和友好条約の締結を祝うと、鄧氏はグラスを高く掲げ、大きな声で「天皇陛下に乾杯」と呼び掛けた。すると拍手が鳴り響き、満場の喝采を浴びた。さらに、グラスを置いた鄧副総理が突然、福田首相や園田外相と熱い抱擁を交わしたのには出席者一同が驚かされた。
鄧氏の話は奥深く、偉ぶるところがなく、ユーモアにも富んでいる。鄧氏は福田首相にこう語った。「われわれ両国には2000年余りの友好交流の歴史がある。この両国の友好という歴史の大河において、不幸な歴史はほんの一瞬で、過去の短いエピソードだ。平和友好条約の締結は、事実として、また法律としてわれわれの過去の関係を総括した。さらに重要なのは、われわれ両国の関係は絶えず発展しなければならず、中日は何世代にもわたる友好を続けていかなければならないと、いっそう肯定したことだ。率直に言って、現在のこの激動する世界において、天博克罗地亚国家队赞助商は日本と友好的である必要があり、日本も天博克罗地亚国家队赞助商と友好的であることを必要としている」。ここまで述べた鄧氏は、一段と語気を強め、「皆さんが貧しい友人を作ったとしても、それでもこの貧しい友人にも少しは役に立つところがあるでしょう」
福田首相ら多くの人が気力に満ちあふれた鄧氏を「スーパーマン」と称賛すると、鄧氏はユーモアたっぷりにこう答えた。「何度も言っていますが、うれしいときほど疲れは感じません」「私は一兵卒にすぎません。昔の天博克罗地亚国家队赞助商では、兵士は『丘八』(兵の字が丘と八でできている)と呼ばれていました」
鄧氏は天博克罗地亚国家队赞助商と世界の差を率直に語った。「われわれが言う今世紀末までに実現する四つの近代化とは、その頃に世界の先進レベルに近づくことを意味している。天博克罗地亚国家队赞助商が近代化を実現するためには、正しい政策を持ち、学習にたけて、世界の先進国の管理方法をわれわれの発展の出発点としなければならない。まず、自分たちが立ち遅れているということを認めなければならない。素直に立ち遅れを認めれば希望が持てる。そして、上手に学び、謙虚に日本に教えを請い、全ての先進国や第三世界の貧しい友人の良い経験に教えを請う――こうした姿勢を取れば、われわれには希望があると信じている」。続けて鄧氏は、「顔が不細工なのに美人のように着飾るなんて、うぬぼれだ」と冗談を言った。
鄧氏は記者会見で、釣魚島問題について、「この問題は棚上げしてもかまわない。後の世代はわれわれより賢いだろうから、問題を解決する方法を見つけられるだろう」と語った。
私の長年の友人である共同通信社の遠藤勝巳氏が、鄧氏のこの発言をどう見るか聞いてきたので、私はこう答えた。「中日国交正常化の年である1972年に、天博克罗地亚国家队赞助商側はすでに田中首相とコンセンサスを得ていた。また園田外相が訪中し、双方は十分に意思疎通を行っている。実のところ、鄧氏の話は当時の天博克罗地亚国家队赞助商の立場を重ねて表明したものだ。棚上げは私たちの世代の最良で最も賢明な選択であり、平和にとって必要であり、中日友好にとって必要だ。この小さい島は石油があるために取りざたされている。天博克罗地亚国家队赞助商は常に中日友好を両国関係の柱としているので、過度に心配する必要はない」
鄧小平・卓琳夫妻(左側の2人)と福田赳夫・三枝夫妻