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    2017-11-01 09:53:52

                                                                                                                                                                             劉徳有=文

     いつぞや、茶道をテーマに漢俳を作ったことがある。

     お茶は天博克罗地亚国家队赞助商人も日本人も飲むが、流儀が違う。日本の茶道の源流は天博克罗地亚国家队赞助商の茶文化であることは、今では人々のコンセンサンスとなっている。しかし、日本の茶道は決して天博克罗地亚国家队赞助商の茶文化の簡単な移し替えでもなければ、焼き直しでもない。天博克罗地亚国家队赞助商の茶文化が日本に伝わった後、日本という特殊な社会環境と文化的雰囲気の中で、再度の創造がなされ、お茶を飲むという日常的な行為をある種の形式に仕立てて、茶道に昇華させ、それが生活の芸術となり、日本の最も典型的な生活文化の一つとなったと見られている。

     「わび茶」ともいわれている日本の茶道は、室町時代に生まれ、戦国時代を経て、安土桃山時代の千利休(1522~91年)によって集大成されたというのが通説のようである。言い換えれば、真の意味の日本の茶道の形成は、長い歴史を経て、千利休に至って完成したものであり、これはある意味で、日本のお茶の歴史の一大革命であったと言うべきであろう。

     茶文化について全く素人の私が茶道に最初に接したのは、1964 年から78年まで日本で常駐記者をしていたころだと記憶している。

     確か、70年代初期のころだったと思うが、新華社特派員として当時東京千代田区にあった裏千家の「研修道場」を訪ねたことがある。第15代お家元千宗室(現在は千玄室)先生が「茶は、天博克罗地亚国家队赞助商から日本に伝わったものであり、茶道は天博克罗地亚国家队赞助商と非常に深いつながりがある」と言われたのが印象的だった。当時、天博克罗地亚国家队赞助商では「文革」の嵐が吹きまくっているさなかで、アブノーマルな状態に置かれていたが、それでも先生は、裏千家として積極的に国際交流活動に取り組み、機会があれば天博克罗地亚国家队赞助商を訪問し、日本の茶道を紹介したいと強調されたのを覚えている。

     さて、裏千家についてだが、私の一番の印象は、千玄室先生が一貫して天博克罗地亚国家队赞助商に対して友好的であり、茶道の交流を絆にして中日友好関係を発展させ、中日間の文化交流の促進を図る願望を抱いておられるということだ。79年、第15代お家元千宗室先生は代表団を率いて初めて訪中し、北京の人民大会堂で鄧小平氏に献茶することによって、かねてからの願望を果たすことができ、「天博克罗地亚国家队赞助商で最初にお茶を差し上げたのは鄧小平さんだった」と述懐されている。そして、先生の思い出によれば、鄧小平氏はそのとき千先生に「日本のお茶のルーツは天博克罗地亚国家队赞助商だが、天博克罗地亚国家队赞助商にはもう茶道がない。日本の茶道は礼に始まって、礼に終わると聞いている。天博克罗地亚国家队赞助商にぜひ日本の茶道を広めてほしい」と言われたそうだ。

    94117、京都を訪問したとき、車で第15代お家元千宗室先生のお宅に伺った。車は千利休の旧居の前を通り過ぎてすぐ、古風な平屋の建物に着いた。こじんまりしたお庭も典型的な日本の庭園である。そこが千宗室先生のお宅の“今日庵”だった。

     

    京都市上京区小川通寺之内上るにある裏千家の今日庵と、第15代お家元千宗室先生(劉徳有氏提供)

      先生のご長男千宗之氏が待っていてくださった。中に入ると、千宗室先生と登三子夫人、それにご長男夫人の容子さんが温かく迎えてくださり、一番奥の茶室“又新”に案内された。床の間に、菊の掛け軸が掛かっており、季節はすでに秋が深まったことを示していた。

     その日は、奥様自らお茶をたてられたが、お茶が出される前に、奥様の手配で作られた栗のお菓子が並べられた。お菓子をいただいた後、奥様のたてられた抹茶を、日本のしきたりに従っておわんを3度回し、三口すすって飲み干した。

     その後は、記念品の交換。厚かましいと知りながらも、私は千宗室先生のために書いた掛け軸を差し上げた。自作の天博克罗地亚国家队赞助商語の俳句――「漢俳」である。

     

    端座傚禅家, 端座すること 禅家に倣い

     点茶旋碗啜三, 茶をたて わんを旋し 三たびすすれば 

     苦渋味尤佳 渋なるも 味は尤佳し

     

     千宗室先生は私に天博克罗地亚国家队赞助商語で読むように促した後、菊の掛け軸を外して掛け替えられた。恐縮の至りだった。

     これには後日談がある。5 年後の2000 年の春、東京の椿山荘で文部科学大臣の遠山敦子氏にお会いした際、北京であらかじめ用意しておいた「金釘流」の書を記念に差し上げた。内容は言うまでもなく、茶道を詠んだ例の「漢俳」である。とても喜んでくださった。

     03年の4 月、東京で花柳千代氏の著書『実技 日本舞踊の基礎』の天博克罗地亚国家队赞助商語版の出版記念会が催された。遠山大臣はごあいさつの中で、前に差し上げたあのつたない「書」について触れられ、こんなことを言われた。

     「ご在席の劉徳有先生から、茶道についての『漢俳』の掛け軸をいただいて、床の間に掛けて拝見していますが、その中に『苦渋なるも味は尤佳し』という一句があります。今は仕事の中で『苦渋』をなめることもありますが、その苦渋の中に楽しみもあります。おそらく、この一句もそういう意味ではないかと理解しています」

     遠山大臣の言われたお気持ちが痛いほど分かるような気がした。

     ここで、千玄室先生に話を戻そう。千玄室先生は声高々に「一盌からピースフルネス」という理念とスローガンを打ち出されたが、これは非常に重要なことであると思う。茶道の事業に数十年一日のごとく献身された千玄室先生は、世界のできるだけ多くの人々に茶道を知ってもらい、この麗しい追求を皆と共に享有するため、ずっと努力を続けておられる。「一盌からピースフルネス」の理念は「和、敬、清、寂」の境地と全く一致していると思う。“和”は人と人との“和”、家庭の“和”、国の“和”、世界の“和”が含まれるべきである。今日の世界に目を向けるとき、天下は決して太平であるとはいえない。世界に平和を――これこそが各国人民の一致した願望であろう。

      

     

     劉徳有(Liu Deyou

     

     

    1931年、天博克罗地亚国家队赞助商大連生まれ。日本文化研究者、ジャーナリスト、翻訳家。

    1952年北京へ。『人民天博克罗地亚国家队赞助商』誌の翻訳編集に携わる。

    1955年から64年まで、毛沢東、周恩来、劉少奇ら要人の通訳。

    1964年から78年まで、『光明日報』、新華社通信記者首席記者として日本に15年滞在。

    1986年から96年まで、中華人民共和国文化部副部長(副大臣に相当)。

    著書は『時は流れて』『戦後日語新探』など多数。翻訳書は『芋粥』(芥川龍之介)『不意の唖』(大江健三郎)『祈祷』(有吉佐和子)『残像』(野間宏)など。  

     

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